テネット(2020)、そしてノーランへの想い
僕はクリストファー・ノーランを尊敬しています。だからこそ、今年公開された”テネット”には違和感や不満を通り越して、軽く怒りすら覚えている。
本作の監督クリストファー・ノーランは、28歳の時に仲間と自主制作映画として”フォロウィング (1998)”を週末を利用して製作し、興行的な成功を収め”メメント(2000)”でメジャーデビューし批評的、興行的な大成功を収めました。己の作品一つ —それも大衆迎合的な内容ではなく、彼個人に由来する極めて先鋭的な思想性や芸術性の高い作品 — それを頼りに世の中へ出て行き、価値を示したのです。彼の生き方と社会的な成功に、僕は芸術はまだ過去のものではない、価値ある作品は今でも人々の心を動かすことができるんだと、明るい希望を感じたものでした。
芸術は多くの人に評価される必要はない(他者の承認を必要としない)ものですが、同時に他者の心を動かすものでもあって欲しい、少しでもその作品が描く”真実”が、受け手の考えや生き方に足跡を残すものであって欲しい、と僕は思っているので、クリストファー・ノーランという作家が思い、感じて表現した芸術作品が、一部の人だけではなく多くの人の目に留まり、影響を与え得たと言うことは、それ自体が僕にとっては感動的なことだったのです。
ここまで書いてきて、クリストファー・ノーランの作家性とは一体なんぞや? と感じた方もいるのではないでしょうか。エンタメ作家でしょ? って感じた方も。
それこそが、僕が”テネット”に感じた違和感であり、怒りの原因なのです。クリストファー・ノーラン、あなたの売りは作家性、思想性、芸術性ではなかったのですか?
また、途中で社会学者・宮台真司氏の”テネット”評論を引用し、肯定的意見としてご紹介致します。
※以降の感想にはネタバレがやや含まれます。
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