DUNE / デューン 砂の惑星 レビュー(パート1) : 母子の物語
未来のビジョン
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『DUNE / デューン 砂の惑星』という映画は、劇中でティモシー・シャラメ演じる主人公ポール・アトライデスが繰り返し見るような”未来のビジョン”を見せてくれる映画でした。その本来のテーマが完結するだろう続編、そして原作2作目を描くという3作目、その壮大なサーガの予感ーー。それはポールが見たように可能性の一つに過ぎませんが、しかし本作で蒔かれた種を刈り取るサーガが作られたとしたら、映画史に残るのではないかと感じます。もしかしたら商業的な大作映画の一つの分岐点となることすら有り得ると。他の思弁的なSF小説、例えばレム『惑星ソラリス』やアーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』などが、マニアックな小品としてではなく大規模予算の超大作として、商業的な妥協なくアーティスティックな感性で映画化される時代が来ることすらあるかもしれない。本作は2020年代のハリウッドの超大作としての没入感、迫力、映画的な魅力を備えていながら、まるで長編小説を読むように豊かで壮大な時が流れ、非常に挑戦的なテーマを描き出す、文学的な作品でした。
以下、ネタバレありで本作のテーマについてレビューします。
長くなってしまったので今回はその前半です。
なぜ『デューン』は映像化困難だったのか?
以前プレビューとして、デューンのストーリーを僕なりに下記のように記しました。
遠い未来の人類達は、中世的封建社会に逆戻りしている。地球を遠く離れた惑星を領地として、皇帝と貴族諸侯からなる銀河帝国が築かれている。舞台となるアラキスと呼ばれる”砂の惑星ーーデューン”は、通り名の通り惑星全体が砂漠化しており、人類の生存には適さない。しかしそこには巧妙に土地に適応したエキゾチックな先住民が住んでおり、そして恒星間航行に必須となる貴重な資源、メランジと呼ばれるスパイスが採取される場所でもある。星の領有権を巡って二つの有力諸侯、長年の敵対関係にあるハルコネン家とアトライデス家は再び争うことになる。・・・
プレビューでご紹介した通り、デューンはかつて何度か映像化を試みられています。ただその魔力のように人を惹きつける小説とは裏腹に、映像化された作品は一部でカルト的な人気を獲得するに留まっています。それは何故か。おそらく小説『デューン』の魅力が、ことの顛末や権力闘争の行方といったストーリー部分の占める割合よりも、ロマンチックな遠未来の世界観そのものの割合が高いためでしょう。
これらの要素をスポイルして筋書きを語ることを優先したら、『デューン』の描く遠未来に没入することはできず、全てが上澄みを滑るように僕ら観客の目は流れていき、何が面白いのか理解することはできないでしょう。
ではそれをどうやって語るのか。その部分が大いなる課題であり、伝説的小説『デューン』が長年「映像化不可能」と言われた所以であろうと思います。プレビューで触れた先達のホドロフスキーが10時間、リンチがラフ編集で5時間超の上映時間を必要としたのも、その課題があったからだと思います。
この問題に関して、ヴィルヌーブはシンプルかつ大胆な手法で、恐らく非常に賛否両論となるだろう方法で、解決しました。すなわち、ストーリーを最後まで描かないということです。
長大で(そしてやや退屈な)貴種流離譚であるストーリーを削ぎ落とした結果、ヴィルヌーブ版デューンは原作の持つ魑魅魍魎的なトピックの面白さを、2時間半の映画の中で非常に分かりやすく伝えることに成功していると感じます。そして原作未読者に対しても、むしろ原作を知らない人にこそ、本作は素晴らしい語りを獲得しています。本作に流れる少しゆったりとした時間の感覚は、正に小説を読むかのような感覚を味わえるのです。
小説を読むという行為と、映画を観るという行為の違いとは何かと考えれば、文章か絵的なメディアかという形式の面だけではなく、向き合う姿勢に大きな差異があると言えるでしょう。それはつまり、能動的に取り組むメディアか、受動的に取り組むメディアかという違いです。
本作は、一つ一つの場面を丁寧に時間をかけて、非常に印象的な絵画的ショットの連続で描写していきます。例えば、アトライデス家が惑星アラキスに初めて降り立った場面は、宇宙船のタラップの手前からのトンネル構図を用いて砂漠の眩しさと宇宙船内の影、主要登場人物達のシルエットのコントラストに目を奪われ、砂塵にはためく母ジェシカら女性達の砂漠に似つかわしくないドレスなどに気を取られ、僕たちも砂の惑星に降り立つという期待をいやが上にも高まらせます。
また主人公ポールの母、レディ・ジェシカが神秘的な力を学んだ女性だけの宗教的組織ベネ・ゲセリットの教母ガイウス・ヘレネ・モヒアムがアトレイデス家の宮殿を突然訪れる場面、降りしきる雨の中、夜の闇を裂いて降り立つベネ・ゲセリットの宇宙船とそこから降りてくる教母達を真横から捉えた ショットも印象的です。何が起こるのか一切説明はありませんが、絵的な異様さがただならぬ事態を予感させ、物語上はあまり絡んできていないベネ・ゲセリットという集団が重要な存在であることを伝えてきます。
他にもポールと母ジェシカが墜落したオーニソプターから這い出て、砂漠から戦火に包まれたアトライデス家を呆然と見つめるシーン、サーダカーと呼ばれる皇帝軍が舞台演劇のようにリエト・カインズ博士の研究施設に降り立つシーン、ポールが夢で見る未来のビジョン、サンドワームの登場シーンなど、印象的な場面が数多くあります。
これらの場面の数々は映画を語る上で必ずしも必要な訳ではないです。しかし映画の世界を自分なりに解釈しながら観ることができる為、それが小説を読むようなナラティブな感覚を与えてくれるのです。
ポール・アトライデスと母レディ・ジェシカ
本作の語り部となるポール・アトライデスの存在感、それを演じたティモシー・シャラメもとても印象的でした。ヴィルヌーブ監督はポール役は”ティモシー・シャラメしか有り得なかった”と語っていますが、映画を見てその意味が分かりました。ヴィルヌーブが描こうとしたポール像は、15歳であり、秘めた想いを胸にメランコリックな日常を送る、華奢で中性的な少年なのだと。そんな彼が偉大な父と母に連れられて、非日常である砂の惑星アラキス=デューンにやってくる。そして抗うことのできない運命の旅路を行くことになる、まず第一にそれを描きたかったのだと感じました。だからこの映画は英雄物語の雰囲気を微塵にも感じさせない、ただ内向的な少年が、外圧によって成長を求められる物語なのです。
『ブレードランナー 2049』のプリプロダクションの時期、ドゥニは『ブレードランナー2049』のクリエイティブチームに「残虐性」という言葉を与えたが、『デューン』でのそれは「メランコリー」だった。「これを聞いたとき、映画の方向性がパッと頭に浮かんだ」
~アート・アンド・ソウル・オブ・DUNE / デューン 砂の惑星
さて少し話は変わりますが、プレビューでも触れた通り、原作でありSF小説の古典である『デューン / 砂の惑星』を映像化する試みはこれまであまり上手くいっていませんでした。テッド・チャンの言語SF『あなたの人生の物語』を『メッセージ』という壮大なSF映画として見事に映画化し、伝説的なSF映画『ブレードランナー』の続編という難題を成功させたドゥニ・ヴィルヌーブとは言え、正直その出来は予想できなかったのが本音です。不安の理由は様々なものがあるのですが、個人的に一番大きかったのは、小説『デューン』が古すぎることでした。ヒッピー、ドラッグ、反体制、非西洋主義としてのオリエンタル礼讃などの1960年代の空気感を纏いすぎており、超人的な力を得た少年によるSF貴種流離譚というフォーマットは80~90年代の様々なポップカルチャーに影響を与えすぎています。悪いことにそれは2020年代の今となってはもはやノスタルジーの領域です。
更に小説『デューン』には、以下に引用するWIREDの池田純一さんのレビューにおいて「闇の部分」と秀逸な表現がされていましたが、選民思想、白人による教化、血統主義、スピリチュアル、等々の不穏なテーマが、肯定的にとらえられかねないニュアンスで描かれてもいます。
だが、この点で、『デューン』には、闇の部分もある。『スター・ウォーズ』をはじめとしてSFではあまりにも当たり前なため見過ごしてしまうが、この物語世界にはデモクラシーがない。代わりにあるのは帝国と貴族制、星間通商ギルドと女性修道会、そして砂の惑星アラキスで起こる神政政治。それもあって『デューン』は、Alt-Rightのような極右の間で実は人気が高いSFのひとつなのだ。Alt-Rightの首魁のひとり、リチャード・スペンサーのお気に入りなのだという。後述するように、原作者のフランク・ハーバートには、西海岸的なリバタリアン保守の側面があり、彼の趣向がこのSFにも投影されているところはある。Alt-Rightの信奉者はそうしたリバタリアンな装いを見逃さない。
50年前にすでに描かれていた〈ポスト・シンギュラリティ〉の未来:映画『DUNE/デューン 砂の惑星』池田純一レヴュー | WIRED.jp
ヴィルヌーブが先人であるホドロフスキーやリンチと違うのは、『デューン』の時代を生で感じてきた1929年生まれのホドロフスキーや1946年生まれのデビッド・リンチに対して、1967年生まれのヴィルヌーブはティーンエイジャーの時にデューンを小説として読んでハマったというのが大きい気がしました。というのも、本作の『デューン』という小説に対する受け止め方は、先に挙げた「闇の部分」も含めた、いわゆる典型的なイメージとはちょっと異なるのです。
ヴィルヌーブ監督が小説に感じたであろう魅力であり、本作で選択的に描き出そうと試みたのは、主人公である少年ポール・アトライデス、そして母でありキーパーソンでもあるレディ・ジェシカの、感情的側面、不安や恐れ、戸惑い、そして人との絆とそれを巡る感情、愛や嫌悪、それらの変遷を描いた抒情詩としての側面なのです。小説が、典型的な理解では宇宙と未来の人類史にまで拡大する壮大な叙事詩と見られていることから考えると、少し意外ですらあります。しかし、常に人間についてテーマの中心に据えていたヴィルヌーブ監督のこれまでの作品のことを思えば、これは必然的な解釈なのかもしれません。本作はその長大な上映時間の中でもかなりの割合を家族の描写ーー母子の関係にフォーカスしています。
そしてその試みは、普遍的な親子の関係性に潜む問題をじわじわと浮き上がらせ、子は親の所有物なのか、出生を含めて自分で運命を選ぶことのできない子供は、その運命を受け入れるしかないのか、というヴィルヌーブ監督らしい哲学的な問い掛けを投げかけます。
本節の冒頭、本作の語り手をポール・アトライデスと書きましたが、言わばもう1人の主人公というべき存在は彼の母レディ・ジェシカです。
監督と音楽のハンス・ジマーは『デューン』の表現にあたり、その核心を”女性の力”という点で共通意識を持っていたとインタビューで語っています。ここで言う女性の力というのは、一意的ではなく様々なことを指すのだと思いますが、一つとしては劇中で男性的権力闘争を陰から操る不穏な宗教的結社ベネ・ゲセリット、そしてその一員であるレディ・ジェシカのことを指すのだろうと感じました。
僕が本作から強く感じたのは、母ジェシカの葛藤です。過ちを犯した1人の母親としての姿です。ジェシカはアトレデス公爵の側室でありながら、実態は王妃であり、跡継ぎであるポールの母親であり、そして劇中で明かされるようにベネゲセリットの神秘的な力を操る強大な存在でもあります。その背後には女性だけの宗教結社ベネゲセリットが何世代にも渡り行ってきた悲願である、血統をコントロールして、人類の救世主となる完璧な人間を創造するという不気味な思想があります。彼女のバックボーンであり、生まれた意味そのものでもある、ベネゲセリットの使命は絶対です。彼女は自分の全てを犠牲にする覚悟を持っています。己や愛する夫、そして場合によっては最愛の息子までもを差出すことを厭わない自己犠牲精神が描かれます。
もちろん、彼女はその善性を信じて疑っていないません。息子に教母との密談と自分に対するテストーーゴム・ジャッバールの試練*1について問い詰められた際も、確信に満ちた有無を言わさない雰囲気で彼を嗜め、大いなる目的の意味を諭します。ジェシカを演じるレベッカ・ファーガソンが盲従とも言うべき確信に満ちた強さを見事に演じています。(彼女が”声—Voice”*2の力を操るのもまた、まるで目を瞑っていることへの暗喩のようです)
物語は彼女の確信と自信、そして対比的に彼女に厳しく躾けられるママっ子のポールの、溺愛されて育ったお坊ちゃんであることを丁寧に描写していきます。
実際ポールにとってレディ・ジェシカはベネゲセリットの超自然的な技の師匠であるのですが、剣や格闘技の師匠であるガーニーやダンカン*3とは、当然ながら関係が異なリます。また父レトとの関係ともです。ジェシカとポールの間には母と子としての主従関係が断固として存在しているのです。この部分は原作小説よりも強調して描かれており、母子の関係が本作の重要なファクターであることを感じさせます。映画の大事なテーマを表すことが多い冒頭の場面が、フレメンの娘チャニの夢から目覚めたポールをジェシカが起こしに現れ、朝食の中で”声ーーVoice”のトレーニングを命じる場面だったことからも暗示されています。
ジェシカとポールの母子の関係、母ジェシカから子であるポールへの想いには色々な意味が込められています。
ジェシカが所属する教団ベネ・ゲセリットは女子修道会のような集団で、文字通り女性のみが所属を許され、代々生まれた女子たちは神秘的な力を引き継いでいます。男子として生まれたポールは、しかしベネ・ゲセリットの予言にある男子の救世主”クウィサッツ・ハデラック”となる潜在能力を持った子であった為、ジェシカは密かに彼をクウィサッツ・ハデラックとさせるべく、女子にしか教えてはならないベネ・ゲセリットの秘術を教育しています。この、女の子として生まれるべきだった少年が、女の子にしか教えてはいけない魔術を教育されるという設定*4が、SFファンタジー的に奇形化した旧来的な社会のジェンダーロールとして、ポールの窮屈な生活を形作ります。またこの設定に対し、ティモシー・シャラメの中性的な雰囲気が、女子を望まれて育てられた少年としての面と、そういったジェンダーロールからの脱却の両方を体現していて、非常に合っていると感じます。
ジェシカの子ポールに対する想いは、息子を教団と世界の救世主クウィサッツ・ハデラックとして育てるという大きな軸を中心にすることで、教団の教義であり宿願である、個の犠牲によって大きな利益を得るという教えと、自分の夫と息子を愛し、彼らの成功を願う思いと、いわば聖母マリアになるという彼女自身の野心という、矛盾した様々な想いを繋ぎ合わせ、そして矛盾を巧妙に隠しています。
このレディ・ジェシカの苦悩や恐れを執拗に監督は描き出します。教母との面会の場面や、息子ポールが彼女の妊娠に気づいた場面、オーニソプターで砂嵐に飛び込んでいく場面で、不安そうな表情を浮かべて緊張している彼女のカットが入ります。また恐れを鎮める為の呪文を繰り返し唱えるシーンも印象的です。演じたレベッカ・ファーガソンは原作を読んでないそうですが、それがかえってレディ・ジェシカというキャラクターへのナチュラルな理解に役立ったのではないでしょうか。
「恐怖は心を殺すもの。恐怖は全き抹消をもたらす小さな死。我は恐怖にぞ立ち向かう。我は恐怖が身内を通り抜け、通過するを許す。しかして恐怖が通り抜けしのち、内なる目をその通り道に向けん。恐怖の通過せし跡にはなにもなかるべし。そこに残るはただ己のみ」
~『デューン / 砂の惑星 (中)』ハヤカワ文庫 より
しかし物語後半で彼女に大きな転機がやってきます。僕は本作のハイライトは、やはりここだろうと思わざるを得ません。ハルコンネン家の襲撃により夫レトが死に、宮殿が燃え落ち、息子と2人きりで砂漠に取り残されて死に直面した彼女は、自己の危機を突きつけられて悲嘆に暮れます。そこで追い討ちをかけるように、息子に大いなる使命の重責を託してきたことを、他でもない息子のポール自身から糾弾されます。
触るな! 全てあんたのせいだ、ベネ・ゲセリットは僕をモンスターにした
~本編より
愛されて育った15歳の少年は、砂漠の香料<メランジ>の作用で未来視の能力が肥大化し、自分に託された運命と救世主としての使命を目の当たりにします。重すぎる運命を背負わされた息子は、その宿命と自分たちをこの世に生み出したベネ・ゲセリットの力を呪います。
他でもない愛する息子からの非難に、彼女は、自身の犠牲心を肯定することも否定もできずに、咽び泣くのです。人類を救済するという大いなる宗教的使命と、目前に迫る自らと愛する息子の個としての死と、そして愛する息子個人の思いの間で板挟みになり、彼女は素の自分に向き合い、ただ泣くしかなくなるのです。
パート2はこちら
numbom2020.hatenablog.com
*1:ゴム・ジャッバールとは毒針のこと、ベネ・ゲセリットが人の内面の強さを試すために行う試練。彼女達にとっては通過儀礼のようなもの
*2:ベネ・ゲセリットが修行によって会得する能力。声を使って相手を意のままに操ることができる。
*3:ダンカンアイダホもまた原作小説よりも役割が強化されている
*4:原作小説ではより具体的に踏み込み、ベネ・ゲセリットの訓練を受けた者は胎内の子の性別を産み分けることができるという設定があります。ジェシカはベネ・ゲセリットの教母に従い、本来はレト・アトライデス公爵の娘を宿すはずでした。教団の壮大な計画に従い、ハルコンネン家に嫁がせる為です。しかしジェシカはレトを愛していた為、自然に身を任せた結果、男子であるポールを身に宿したのです。