映画についての雑感

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クイーンズ・ギャンビット : 破滅的な天才物語の新しい形

天才的チェスプレーヤーであるベス・ハーモンの半生を描くNetflixオリジナルドラマ。原作はウォルター・デヴィスによる”The Queen’s Gambit (1983, 未邦訳)”。配信開始と同時に世界各国のNetflixで上位に入り続け、世界63カ国でランキング1位を記録した大ヒット作品。日本でもここ最近デイリーランキングの上位に入っており、人気が出てきています。

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クイーンズ・ギャンビット プロモーション用アートワーク


本作の大ヒットの要因とも言える魅力の一つは、チェスという、誰もが何となく知っていて詳しくは知らないジャンルを扱い、女流天才プレイヤーの半生をブレることなく描き、チェスでの成功譚とそれに付随する数々の負の要素、光と闇にフォーカスする王道的な展開ではないでしょうか。


中でも、チェスのマニアックな側面ではなく、あくまでベスという主人公の幼少期から青年期までを全7話 (約7時間) を使ってとても丁寧に、ブレずに描いている点にあるでしょう。まずはこの予告編を見て下さい。まるで2時間の映画の予告編のような芯の通った物語であることが感じられるのではないでしょうか? これで興味が湧いた方は恐らくハマります。

予告編


他にネタバレしない範囲での魅力としては、演出が素晴らしい点でしょう。シンメトリーで美しい構図、登場人物の心情をも反映した色使い、光と影に偏執的に拘ったライティングがもたらす不安感、主人公から絶えず一歩距離を置いたカメラワーク。近年の映画作品と同様、絵作りを見ているだけで飽きないし、ストーリーテリングの為に常に効果を発揮しています。


また主人公ベスのファッションなどに代表される、60年代〜70年代のお洒落な雰囲気や、劇中の登場人物たちが聴くその時代の音楽もまた魅力的です。フィクションであるに関わらず史実のような雰囲気があります。


以下、ネタバレありでこの作品の主人公ベスの描き方について、よくある天才的な主人公像とは異なっており、それが本作の独自性を高めていることについて解説します。また最後に、本稿で触れることができなかったその他の魅力について、他のレビューワーの方の素晴らしい記事をリンクとして引用させて頂きます。


<目次>

作品紹介

Netflix公式サイトより引用します。

クイーンズ・ギャンビット (2020)
1950年代の児童養護施設で、人並外れたチェスの才能を開花させた少女は、依存症に苦しみながら、想像もしていなかった華やかなスターへの道を歩いていく。
出演:アニャ・テイラー=ジョイ、ビル・キャンプ、マリエル・ヘラー
原作・制作:スコット・フランクアラン・スコット

Netflix公式サイトより

https://www.netflix.com/jp/title/80234304

破滅的な天才物語のテンプレートには従わない

まずこの物語の面白さの第一に、主人公ベスの能動的な性格があるでしょう。冒頭の孤児院のシーンで登場する9歳の彼女は、赤毛のおかっぱヘアーでムスッとした顔つきで、口数も少なく、内向的な大人しい雰囲気を醸し出しています。内向的なことは間違いないですが、しかしその後の彼女の人生は、思ったこと、興味ある物、欲しい物、全て自分の意思で行動して手に入れていきます。貰えなくなった孤児院のお薬や、チェスの雑誌、大会への参加費用、などなど。見た目と裏腹に全く受動的じゃないところが彼女の魅力であり、大人になるにつれて見た目も性格に合わせて変えていき、どんどんオシャレに、どんどん主張が激しくなっていきます。つまり、イキっていくのです。


この話の基本プロットはいわゆる典型的な、天才と狂気を扱った物語です。才能や金、地位などの一般人では持ち得ない力を「持てる者」が、その力を行使して自分を誇示していくと同時に、力により精神の均衡を崩し、最後は周囲の人や金や才能などその力そのものを失って身を滅ぼしていく、そういう話です。しかしこの作品は、そういった従来の天才物語と同じプロットに則って話が進むのに関わらず、物語の視点は、少し異なった角度からのものになっています。


従来的な「天才物語」は、良くも悪くも、物語のベースラインはハリウッドの古典"市民ケーン(1941)"のように、持てる者である主人公を一般人とは異なる狂人として描くことに執心するものが殆どです。いわば狂気がその才能の源泉であり、そして成功の礎となったとして、物語を定義していました。従って、物語の視点は常に主人公からは一歩距離を置き、共感せざる者として、そしてそれが天才である証として描いていたのです。


対してこの物語は、非常に主人公ベスに対して共感的に描いています。彼女は不安定な家庭に生まれ、母親の自殺の結果、孤児となり、その後はやはり問題を抱えた家族に引き取られることになります。実の母親は数学者でしたが精神を病み、子育てを半ば拒否します。父親については物心つく前に離婚していて、よく知りません。そして義理の母も精神を病んでいて、夫は逃げてしまい、自身は精神安定剤を飲んでアルコールに溺れ、万年体調も悪くて家事もあまりできない状態です。


本作はその関係性を丁寧に描写し、娘であるベスが家庭の影響下に置かれていることを強く感じさせます。実際、彼女は孤児院で当初与えられていた精神安定剤に強く依存しており、また義母の影響でやがてはアルコール中毒に陥っていきます。しかし同時に、そういった辛い幼少期に受けた体験や感情、それが自身に与えた影響について、ベスは常に内省的です。彼女自身が若さゆえに酒や薬に頼るクレイジーさを個性として演じて楽しんでいるところもあり、同時に酒が孤独を慰めるものであり、内向的な自分をさらけ出すブースターでもあることを描いています。また酒や薬に頼ることを止めたい、止めようと常に思い悩んでいることをきちんと描いています。その思い悩む姿は、決して孤高の天才少女などではなく、ごく普通の若者となんら変わりありません。

驚異的な才能ではなく、彼女の弱さを描く

また、時にブラックジョーク的にすら感じられるドラッグ中毒の描写についても触れない訳にはいかないでしょう。孤児院で「緑のクスリ」と劇中で呼ばれている精神安定剤をもらった時期とチェスを始めた時期が同じだったことがきっかけで、緑のクスリが頭の冴えの為に手放せない物となっていきます。物語当初はクスリでパワーアップするみたいな描写が、スコセッシ監督の”ウルフ・オブ・ウォールストリート (2013)” みたいにちょっとコミカルに展開します。また、幼いベスが薬を手に入れようと奔走する姿も、やっぱりどこか哀れで笑ってしまいます。しかし物語終盤になると、薬を飲む描写や手に入れる場面は殆どなくなり、家に訪れた友達など他者が”見つける”描写によって我々オーディエンスにその存在を思い出させるようになります。そして気の良い友達 (ここはちょっとご都合主義的だけど)はクスリを止めるように助言しますが、ベスはいつも拒絶します。しかしその拒絶は本心ではなく、彼女は本当は友達の助言を受け入れたいと思っていること、ただ依存から抜け出せないことが示されます。クスリを使って自己陶酔する人間ではなく、悪いと思っていてもやめられない依存的な人物、弱くはあるけれど共感できる人間であることが強調されるのです。


劇中、メキシコシティでの大会で、かつての自分と同じような10歳くらいの少年と対局した際に、少年はベスに「数年以内に世界王者になることが目的なんだ」と宣言します。それに対してベスはこう返します。


「その後はどうするの?」


当然のように、これは彼女が自分自身への問い掛けとして発している言葉だと、オーディエンスである我々は理解できます。チェスしかない人生で、若くして成功して、その後はどう生きるのか、彼女自身が疑問に感じているのです。


また、終盤、孤児院の頃の友達であるジョリーンと再会した夜に、有名人であることに付随するチェス以外の全て、取材や資金集めが負担であることを吐露すると共に、しかし著名なチェスプレーヤーでなければ自分は”ただの飲んだくれ”であると言います。自分の価値はチェスが上手いこと以外にはないと感じているのです。


こういった形で、物語は常に主人公ベスに寄り添い、彼女を理解できる1人の人間として描くことに執心しているのです。彼女の才能はギフトであると同時に、重荷でもあり、でもそれがなければ生きていくことができない不器用さこそを描いていきます。


それゆえ、破滅的天才物語の1つの王道である、主人公の身の破滅や孤独に対して、我々オーディエンスは自然に、そうなって欲しくないと願うことができるのです。描きようによっては鼻持ちならない人間であるハズの彼女の成功と人生の幸せを願えるのです。結果として、どういう結末を迎えるのか最後まで興味が尽きない、緊張感を持って見続けることができる作りになっています。


そして共感的に描いているからこそ、終盤、亡くなった孤児院の用務員、彼女にチェスを教えてくれたシャイベルさんの部屋を訪れる場面で、生前はついに再会することなかった彼が作っていたスクラップー ベスの活躍を記した新聞記事や雑誌、彼女からの手紙ー を見つけるシーンの切なさは、劇中の彼女と同じように胸に迫るものとして感じられます。また、併せてベスがチェスを続けていたことが、生前のシャイベルさんにとっても誇りであり、楽しみであったことが、彼女がチェスプレイヤーとして苦しみながらも生きてきたことが、決して無意味ではなかったことを示す場面でもあります。

チェスを続けたことの意味

それを示すように最終回、モスクワでの現世界王者ボルコフとの戦いに際しての展開は、彼女の対局に多くのチェス好きなロシア人やアメリカ人が国の垣根を越えて熱狂し、熱い勝負を見守る様子が描かれます(ところどころややご都合主義的な部分もありますが)。当時、冷戦下の情勢を考えれば、この対決は本来は米ソの代理戦争としてナショナリズムを煽る場面のように描かれてもおかしくはありませんが、この作品はそう言った「こっち側」、「あっち側」という他者化されたロシア人を描写することなく、試合を見に来る人達を単に熱心なチェスファンとして描きます。彼女がチェスで人々の心を繋ぐ様子は、感動的です。最後に敗れたボルコフも彼女の成功を讃え、ハグをする優しい場面も描かれます。(本稿の内容とはあまり関係ないですが、最後にクスリなしで天井にチェス盤の幻覚が見えるシーンも可笑しさと熱さが混在する最高のシーンですね)


そしてラストシーンは、空港へ歩いて向かうベスが、ロシアの街中でチェスに興じるお爺ちゃん達に羨望の目を向けられ、一人の老人と対局する場面で終わります。ロシア語を話す老人とベスは殆ど会話をできませんが、何となく老人が好意を持って接していること、そしてチェスには言葉は必要ないことが希望として描かれ、物語は終わります。その後、彼女がどう生きたのかは分かりません。ただ、チェス以外は(本人としては)良いことない半生ではあったかもしれないけれど、そのチェスには、人と人を繋げるという意味がちゃんとあった、という明るいエンディングを迎えます。

最後に その他の視点について

本作品について、僕が感じた新しさは本項で述べた通りですが、その他にも魅力はたくさんあります。本作の他の魅力については他の方が素晴らしいレビューを書いておりますので、そちらをご紹介して締めたいと思います。


一つ目のリンクを貼らせて頂いたWezzy編集部の記事は、一見ステレオタイプなキャラクター造形でありながら、ステレオタイプを否定する人間的な深みを描いているという観点に注目し、ベスや他の登場人物とその関係性にフォーカスして執筆されています。僕自身も非常に納得した内容になっています。ぜひこちらも読んでみて下さい。

wezz-y.com

二つ目のリンクはレビューではないのですが、WEBマガジン BAZAARの記事で、劇中に登場する「緑の薬」の正体や、50−60年代アメリカの女性を取り巻いていた時代背景などについて解説した内容です。本作についてより深く理解する為に役立つ情報ですので、併せて読んでみて下さい。
www.harpersbazaar.com





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